先日、とある動画を見た。
その動画は、子猫を保護したものだった。
数百万再生以上も、視聴されていた。
コメント欄は、子猫を保護した主への称讃や、子猫に対する心配の声などで埋め尽くされていた。
どのコメントも、優しさで満ち溢れていた。
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しかし、ぼくはそれらの声を見て、とても気持ち悪いと感じた。
もし、助けた命の対象がホームレスだとしたら、ここまでの再生数が伸びたのだろうか?
もし、助けた命が「ネコを食い物にするカラス」だとしたら、コメント欄に称賛の声はあがっていたのか?
もし、助けた命がゴキブリだったとしたら、人々はどう感じたのだろうか?
人間は、助ける対象の「命の価値」を比較検討し、行動に移す。
今、目の前に二つの選択肢がある。
一つ目は、血だらけで今にも死にそうな子猫。
二つ目は、同じく血だらけで瀕死なカラス。
このどちらか一方しか助けることができない。
あなたなら、どちらの命を助けるだろうか?
おそらく、大半の人が子猫を助けると思う。
子猫は可愛いし、か弱い存在だ。
しかし、カラスは黒くてキモいし、鳴き声もうるさい。
ので、ぼくもおそらく子猫を助けると思う。
これは、ぼくが「助ける命」の価値を、比較検討した結果の行動だ。
ぼくらは皆、「助ける命」を比較検討し、行動にうつす。
その結果として、周りから称賛されることもあれば、非難されることもある。
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YouTubeやSNSでは、そういった「共感の値」が、数字やコメント数として表れる。
共感されている物は数字が伸び、そうでないものは全く視聴もいいねもされない。
人々は、「助ける命の価値」に共感する。
子猫を助けることは「いい行動」だが、ゴキブリを助けることは「わるい行動」である。
人々は、子猫を救った主を讃える。
しかし、ゴキブリを救った主は讃えられない。
なぜならば、そこに「共感」が生まれていないからだ。
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子猫を助けた主に対して共感しないぼくは、おそらくサイコパスなんだと思う。
猫に対してかわいそうと感じない心も、サイコパスなんだと思う。
でも、ぼくから見たら、「助ける命の価値」によって称賛の声をあげる人々の方がよほど狂っていると思う。
「助ける命の価値」は、誰が決めるんだろうか。
それは、人間の主観だ。
猫もカラスもゴキブリも、等しく生きる権利はある。
しかし、人間の主観でもって、生かされる命とそうでない命がきまる。
共感と価値が、この世にとって唯一絶対の「生きる条件」なのだ。