うしらく(@ushiraku)です。どもー!
つい先日、とんでもないサイコパス的な「座間バラバラ殺人事件」をニュースで目にした。
東京都八王子市に住む女性(23)が今月24日ごろから行方不明になり、神奈川県座間市緑ケ丘6のアパートの一室から2人の遺体が見つかった事件で、警視庁捜査1課は31日、この部屋に住む職業不詳の白石隆浩容疑者(27)を死体遺棄容疑で逮捕した。
毎日新聞より引用
この事件の凄惨なところは、犯人が被害者たちの体をバラバラに解体し、クーラーボックスなどに遺棄していたところだ。
しかも、被害者の数は9人にも及ぶという。
だがしかし、ぼくはこの事件に対して、とある違和感を感じている。
それは、
というもの。
その理由を、淡々と書いていきます。
座間バラバラ殺人事件で一番悪いのは「被害者」の方だ
このバラバラ殺人事件で興味深いのは、犯人と被害者の出会いが
- 自殺サイト
- SNSでの死にたいアピール
を発端としているところ。
同課によると、行方不明になっている八王子市内の女性は、ツイッターで「一緒に死んでくれる人を探している」などと自殺願望をほのめかしていた。
インターネットを通じて同容疑者と知り合ったとみられる。同容疑者は「(事件時に)女性と初めて会った」と供述。
女性の殺害についても認めているという。
毎日新聞より引用
もちろん、人を殺したやつが一番悪い。それは前提としてある。
でも、この事件に関わった被害者は、自分から進んで「死にに行った」のだ。
自殺サイトやSNSで「死ぬ仲間」を見つけてどうするんだ?
ぼくは去年の夏(2016年7月)に、崖からの飛び降りで自殺を図った。
で、その一部始終はブログの記事にしているし、当ブログで一番読まれている記事でもある。
でも、この記事は「自殺を食い止める」ために書いたものであって、自殺を幇助するものではない。
ぼくは、自分の自殺体験から「自殺する人を減らしたい」という思いを込めて、自殺未遂の記事を書いた。
また、この自殺未遂の一件は、ぼく一人で決行した。
静かにひっそりと、この世から消えたかったから。
一人で死ぬ勇気がないやつが他人に殺されても、それは自分が悪い
結局、バラバラ殺人事件の被害者は、自分ひとりで死ぬ勇気がなかったんだろう。
だから、他人の力を借りて死のうとした。
死に方はどうであれ、ある意味では被害者の「死にたい」という願いは叶ったとも言える。
他人に対して「死にたい」って言うのは、こういう結末を迎える選択でもあるのだ。
生きるか死ぬかは自分で考えて、自分で決めろよな
ぼくのLINE@にも、「死にたい」っていう相談(?)がよく来る。
ぼくの返答は、かなりドライだと思う。
でも、結論を言うと、自分の人生は自分で決めるしかない。
親、上司、先生があなたの「生死」を決めてくれるわけじゃないんだぜ?
自分の「生死」を他人に決めてもらおうとする奴らは、結局「半人前」の人生を歩いてきたんだと思う。
親や先生、職場の上司などに「どうしたらいいですか?」って、何を決めるにも判断をしてもらってたのかな。
そして、人生で一番大切な「生きるか死ぬか」ですらも、そういった人たちに決めてもらおうとしてるんだろうね。
でも、なんで自分の人生を自分で決められないの?
それは結局、他人に甘え過ぎなんだよ。
自分の人生は、自分で決めろって。
自分で選択した結末は、自分で責任を取れ
ぼくは自殺未遂をして以降、右手と右足に後遺症が残りました。
重いものを持ったり、走ったりすることが出来なくなった。
でも、これは自分でやってしまったことなので、自分で責任を取るしかない。
だからぼくは、自分の軽率な行動に対して、深く反省している。
座間バラバラ殺人事件による死は、被害者が自分で責任を負え
こんなこと言ってももう遅いけど、バラバラ殺人事件の全責任は「被害者」が自分で負うもの。
たしかに、酷い死に方(殺され方)をしたと思う。
それでも、犯人と出会い、そして落ち合ったのは「被害者」が自ら選び、決めたこと。
だから、死んでも誰にも文句は言えないし、誰も同情はしてくれない。
少なくともぼくは、今回のこの事件を見て、「被害者が可哀想だな」とは1ミリも思わなかった。
むしろ、結果的に「死にたい」という願いが叶って本望だったんじゃないかな。